集団心理と葬儀
先日テレビで、ミルグラムのアイヒマン実験についての番組がやっていました。
閉鎖的な状況下で、どれだけ人間は残酷になれるか?というものです。
おそらくご存知の方もいらっしゃるでしょう。
しかし、この番組の面白かったことは、どんな状況下でも人間は選択の余地がある、
と判断することができるということです。
たしかに怖いのは、なにか卑劣な行いをしなければならない状況下で、その手を下した
人は、みな「命令されたから」と答えるわけです。
いわば洗脳です。
洗脳下では人間は、自分の身の危険を感じでなにか恐ろしいことを行ってしまうというよりは、
正しいと判断したり、責任が自分の手から離れてしまい、思考が完全に単純化してしまった
とき、つまり選択の余地を考える必要がない状況に陥った時に、通常ではありえないような
行動を行うということです。
命令されたことに対しての善悪ではないのです。他者が責任は全部こちらが被るということ
だけで、普通であれば選択しない、もしくは選択してもまさかこちらは選ばないであろうことを
やってのけてしまうのです。
残酷さというよりは、思考を奪われた状態です。
そんなことこの今の世の中ではありえない、とはあながち言い切れませんよね。
みんなでやれば、ほかの人もそうしているし、きっとみんなそう思っているはず・・・
なんてことは、似たようなものに思えて仕方がありません。
どれだけ自分はそんなにいい人ではないかもしれないが、悪い奴でもないなんて自己分析して
いる人でも、右へ倣えのような行動で人を貶めている可能性は十分にあります。
一番いけないのは、自分がだめだとわかっていても、自分を正当化する本能が働くあまりに
人を知らず知らずのうちに扇動しようとしたり、取り繕ったりすることです。
また、布石を打ったりして自己を否定しているそぶりをしながら、肯定する人も問題です。
なんの話か?と思われるかもしれませんが、よく「世の中が悪意に満ちている」というような
論評をする人がいますが、悪意になんか満ちていません、というのが私の意見です。
悪意に満ちさせているのは、自分の心です。
私たち葬儀社は、様々な人生を送ってこられた故人様を送る手伝いをします。
本当にどんな方だったかは、正直わかりません。
たとえば、悪人と呼ばれる人は葬儀をする資格があるとかないとか、いい人だったから手厚く
葬られるべきで、一般的な人生の方だったから、それなりに済ます、なんてことで、葬儀の行為が
変わるわけではありません。
また、我々は宗教家でもありません。
だから、聖人ぶって、すべての方の魂が・・・ということで葬儀のお手伝いをしているわけでも
ありません。
どのようなご葬儀をされたいか、送る側、送られる側の方の意向にできる限り添って行い、
何かしら送ったという実感を残すことができたのであれば、それが大切なことの一つのような
気がしています。
葬儀軽視の風潮が世の中にあるような気がします。
そんな中、葬儀社の社員にしても、役者のごとくその場を演じるような者もいるかもしれません。
時代に流されず、どうしたいかを本気で考える、そこに本当の葬儀の意味合いがみえてくる
かもしれません。