葬儀だから
本日は小春日和といってもよいくらい、なんだかいい陽気でした。
これからまた寒さがぶり返すのは仕方がないのですが、10年来の、とかここ数年よくある気がします。
コロナ然り、百年に一度のとか、未曾有の、とか。
葬儀の本質を問われると、儀と付くだけに、一定の宗教的儀式による云々となったりするのですが、死者の魂をという云々という鎮魂とかですね。
形式的なもののように捉えてしまう方もいらっしゃるかもしれませんが、その儀式には儀式の意味があるわけで、それを理解できるかどうかという問題があります。
理解できないほうが悪いのか、理解させるようにしないほうが悪いのか?
理解できないこと単純に無意味と同義的にしてしまう風潮はないか?
そんなことを暖かな陽射しの差し込む車内で考えておりました。
いまいろんな業態で中止か延期か、という議論がなされています。
そんな意味では無駄を省く、ということが急速に行われているのでしょう。
となると、無駄とは何か?となってくるわけです。
葬儀にお金をかけるのは無駄と言う方もいらっしゃいます。
その無駄とは何が基準になっているのか?
人の価値観なので、否定はしないです。お金をかけると必ず良い葬儀ができる、はイコールではないとも思います。
高い葬儀は無駄、という意見はわからなくないですが、葬儀は無駄という仮説を立てるならば、これは国や地域よってもいろんな意見で大きな論争を巻き起こしそうな気がしています。
葬儀は時代の世相を反映する文化であってほしい、と思うのでした。