習俗ですので
最近、葬送習俗辞典なるものを読みあさっているのですが、日本全国の葬儀にまつわる習俗のことがいろいろと書かれていて、実に興味深いのです。
葬儀というものは、確かにいわゆる「しきたり」というものが存在していて、それも今日では、かなり薄れていってしまっているようにも見受けられますが、全国的に同じようなしきたりも、元を追っていくと風習や文化につながっていくわけです。
これが全国、それぞれの地域でいろんな解釈がなされ、そしてその土地、環境にあった捉え方によって意味合いが変化をもたらし、いつの間にか、「しきたり」として根付いていく、というのは本当にすばらしい。
今日のように、これだけ情報網が発達すれば、いわゆる標準化がすすんでいき、意味合いが統一もしくは、廃れていく、というのもある意味、仕方がないのかもしれないですが、私はこういう、例えば葬儀にまつわるしきたりや文化が、子供や人間の教育にかかわってきたんだろうな、ということの文化としての大きな価値に注目しても良いのではないか?と思うのです。
つまり、小さいとか大きいとか、安いとか高いとか、そういうことで葬式不要論を唱える方もいらっしゃるでしょうし、これだけ科学が進んだ現代において、魂や宗教的観念を否定なさる方もいらっしゃるでしょう。
それはそれで仕方がないのかもしれませんが、全てを肯定的に捉えるわけではありませんが、葬儀、つまり人の死というものからでしか、教育できないことというもの、またその土地の文化の継承など、人間味とでもいうのでしょうか、そういうところがあるのではないか、とつくづく思うのです。
要、不要はいったん置いておき、習俗からくる意義ある葬儀という見方を一度、突き詰めてみてみたいものです。