いまさらですが
「俺はこいつの咬ませ犬じゃねぇ!」
と、言葉はこのままだったか、ちょっと違うかもしれませんが、昔あるプロレス団体で某有名レスラーが人気レスラーに放ったこの言葉、というかこのシチュエーションがたまらなく好きです。
その後、袂を分かつように、彼は新団体を立ち上げ、それこそ真の実力者は俺だ!といわんばかりに既存勢力に抵抗していくわけです。その道のりたるや、なかなかのドラマが結構長い年月続くのでした。
またその者に対しても、反逆していくレスラーも現れ、当時小中学生だった私は、えもいわれぬ感情に満ち溢れた記憶が蘇ります。
そう、「咬ませ犬」。すごいです。
何が凄いかというと、きっと「咬ませ犬」ってどんな犬でもなれるわけではない、と思ったんです。
あまりにも弱すぎる犬は、老犬であれ「咬ませ犬」にもなられないであろう、つまりボクサーのスパーリング相手然り、相手が手ごたえがなければ意味がないわけで。
いま、自分が「咬ませ犬」になってんのか?とか思っているわけではありません。
私もいい歳になってきましたが、全て返り討ちにしてやる!くらいの気力はまだ持っているみたいです。
咬ませることが教育なんだ、というところまで論点は頭の中で突き進み、ついに出た結論は「咬ませ犬のふりをして咬む」ことも大事だな、と。
またこのいまの時代、「咬ませ犬」や「闘犬」といったことが、本当に感情やハングリーさを表現した言葉ではなく、「裏咬ませ犬」とか「咬まされ犬」「咬んだのと同等の精神的ダメージを与える闘犬っぽいけど自分の手を下すようなことはしないやつ」と、こういうのも多様性に富んでいるように思います。
そもそも咬ませ犬を咬んだくらいで、「俺ってすごいじゃん」みたいに思っているようでは、その者の先行きの道のりは険しいことは言うまでもありませんが。
そう、世の中には「咬ませ犬」のふりをしている者はたくさんいます。
「咬ませている間に気づけ」と思っていることでしょう。
しかし咬むにも咬ませるにもそれなりの労力は必要だな、と。
目的は、すべてのお客様に「いいお葬式」を提供すること、なんです。