「普通」とコアと向き合えるか
って、他人のことを本当に理解できるかどうか、いや他人に限らず「他者」ですね、他者が何を思い、何を感じているのかを知ることというのは心理学者じゃありませんから、本当に難しいことだと。
家族といえども同様です。ですから他人という言い方ではなく、自分以外で他者とさせていただきました。
相手に本音をさらけ出すなんてことは、なかなか私だってできないですし、皆さんも同様かと思います。
人に言いたくない過去、人には言えない様々な事情、あって当然ですし、逆にない方が(よいのですが)珍しいのではないでしょうか。
とはいえ、ない方が逆にマイノリティで特別というわけでもなく、それもこれも、本人がどう感じているかで、他者からみたら大したことがないようなことも、本人は「おおごと」と思うこともあるでしょうし、これこそ育った環境や教育、目にしてきた、耳にしてきた、感じてきた、言われてきたこと、など本当に環境によって育まれてきた「感性・感覚」によって大きく異なるものだと痛感しています。
一時期、日本はそれが「中流意識」的なことで、ほとんど大半の人間が同じ感覚をあたかも持っているかのように「普通」という言葉がつい口をついて出てしまうような、恵まれた環境を享受してきた多くの方がいたような気がします。
ところが、経済環境なども変わってくると、「普通ってなんなんだ」と、「お前の普通はおれの普通じゃないんだよ!」ということや、終には「普通=ダメ」という論説も出てくるわけで。
確かに、普通という感覚は私もあまり好きではないのですが、普通を追い求めてきたような過去の経験もあり、私にとっての普通は、他者からみた「普通」とは一味違う「普通」だと思います。
でも、やはり、恐らく普通ではないのだと思います。
普通は安全の境界線なんでしょうか。戦火の渦中にいる、貧困が当たり前のようになってしまっている、いろいろな国がありますが、そこで暮らす人の普通と、日本に住んでいる人の普通もその時点で大きな差があるわけです。
そのいわゆる私たちから見ても大変そうな国に暮らす方々の中でも、普通の意識はまたそれぞれ違い、日本においても同様です。
というなかで、相手と話をし、相手の心を少しでも読み解き、そして課題解決するということは、私自身も頑固なところもあるので、なかなかの大変なことだと思っています。
そうやって考えていくと、自分の理解力や判断力は、いまの知識ベースで本当に大丈夫なのかと不安を抱える毎日であることは言うまでもありません。
まあ、気持ちを切り替え、前向きに持っていけるのが、私のちょっとした特技ではあるので、普通を意識して頑張っていきます。
H.O