他力だったと思う
のですが、五木寛之氏の「他力」という本を読んだときに、私の「諦める」という考え方の認識を大きくかえていただいた一冊であったことを、よく思い出します。
かなり以前に読ませていただいたのですが、諦めるを「断念する」という意味ではなく諦観するという、つまり明らかにすることが「あきらめる」ことだという内容に若き私は、何にもわかっていない分際で、ちょっとしたショックを覚えた記憶があります。
ここから自己解釈で、あきらめる=ネガティブな言葉ではなく、ある意味大変なポジティブな言葉で、諦めることができないことこそがネガティブなことであり、それは自己分析ができないことが原因であると、勝手に結論付けています。
要は、自己分析ができない人ほど、謙虚さがなく、自己肯定感のみを求め、自己否定を上手くコントロールできないので、気付かないうちに「自分の考えが正しい」感満載になってしまうのだと、私は理解しています。
実は、自分はダメだということで、「諦める」ことなくいることで、どうにも間違った認識を持ち続けたまま、変な正義感や方向性の違う論理を展開して、最終的にあまり自身を見えていないまま進んでいき、言うに及んで他者批判や世の中批判を展開するという輩も多い気がします。
もっとシンプルに、もっと自分自身に対して「諦める」=「明らかにする」という行為ができれば、もっと楽になる気がしてなりません。
人からの期待感よりも、自分が与えられている状況をどのようにコンプリートしていくかを、長期目線で考えていけばよい話のように思っています。
H.O