2025年
は、あの阪神淡路大震災から30年の年になります。大学4年生のとき、借りていたアパートが倒壊してから早30年。その後も、国内はさまざまな自然災害に見舞われることとなり、いまだにその爪痕癒えぬままの地域、困っている方々が多数存在します。
私は、アパートは倒壊したものの、地震発生時にそのアパートには居らず、一般の方も住まわれているアパートだったので、近所の方にご心配をお掛けしたのではありますが、家財はどうにもならないまでも、ケガすることもなく無事でいることができました。その家財も、就職のため、引っ越しせざるを得ない時でしたので、どう処分しようかと思っているときでもありました。
また、なかなか困難ではありましたが、実家は愛知県ですので、なんとか車を走らせ実家に帰ることもでき、それも避難所生活されていた方々からすると、私は恵まれておりました。
被災者という立場ではありながらも、全くもって私は恵まれており、今日に至っているわけです。
いま思い返せば、この人生で幾度かではありますが、少し違っていたらもうこの世にはいないかもしれない、ということに遭遇しています。
ここでは書き尽くせないですが、その都度、その都度、私は本当に恵まれているのだといつも思って過ごしてきました。
ただ単に「運がよい」という言葉で済まされることはなく、いわゆる「生かされている」と感じるのです。
この思いは、恐らく本当に最後の日を迎えるまで、おそらく私の中では変わることのない精神的支柱であり続けることかと思います。
他人をどうこういうことはできないのかもしれませんが、今の自分の置かれている環境をすぐに「最悪だ」と考えたり、素直に人の話を聞けなかったり、人のせいにしたり、意見ではなく批判から入るような、いわばそれが癖ではないか?と思わせるくらい後ろ向きな姿勢をみると、やるせない気持ちになります。
事の大小、こちらの方がひどい体験をしているとか、そういうことではなく、事実として被災や事件、事故に巻き込まれても、生かされているものたちは、多かれ少なかれ、現代のSNSでの無意味なやりとりをみると、やるせなく思っているのではないかと勝手に想像する、30年目の1月です。
HO