家族葬
というと、定義がありそうでない、という話に行きつくことが多いのではないかと推察するのですが、逆に「お葬式」というキーワードから想像する「お葬式スタイル」って何なのだろう、という疑問がわきます。
家族葬が一般的な葬儀スタイルとして定着しているわけですから、ここ約10~15年くらいの間で、例えば「初めて葬儀に参列した」というよりは、むしろ「お身内にご不幸があった」方のおそらく多くは「家族葬」というスタイルにて参列されている(関わっている)わけなので、「お葬式」のイメージは、=家族葬ということになるのは当然の成り行きです。
昔はこうだった、こんなに人が来た、という昔懐かしい話であり、そしてなぜかそこから話が延長して、葬儀にあんな風にお金を掛けるのは…ただ大変なだけ…というようなことになっていきます。
いわば、あれは「あかん」ことのように…。
結婚式などもそうですが、冠婚葬祭を派手にやった(そういうように出来た家庭、やりたくなかったけど無理してやったとかも含め)ことが、ステイタスだったのも、時代やコミュニティの形成のされ方、文化も含め、それが辿ってきた葬送や冠婚葬祭の文化は、否定することはまた別問題のように思えるわけで。
きちんとしてやれないなんて情けないぞ!みたいな見栄や自慢大会的になってしまった面がクローズアップされがちですが、こういうことも含め文化が成熟していっている過程だったと思うのか、道徳心や精神的成長がなされていなく、清貧や慎ましさが成熟した人間の証なのか?というような論調も目にするわけで…。
謙虚さというとても大切な行動指針のこの言葉を、例えばどうもお金を使わないこと、と同義語にしている節も感じています。そもそも人それぞれの感覚、考えのもとですので、お金を使わないことを否定などもちろんしていません。倹約、節約は本当に大切な、これも行動の指針です。
なぜこんな話をツラツラと、といいますと、東京都知事選のせいだ、と締めくくって終わります。
H.O