自由のとらえ方と考え方
宗教を大切に考えられていらしゃる方もいれば、宗教心がないとおっしゃられるかた、 ご葬儀の際はやっぱり宗教家が必要ではないか?と思われる方、そして宗教家など いらないとの見解をお持ちの方、いろいろといらっしゃいます。 そして無宗教にて葬儀を行われる方も、近頃は多くなっているのも事実。 ただし、無宗教葬といっても大抵のご遺族は、焼香をしたりします。 無宗教イコール宗教家を呼ばない、になっている気がします。 言葉だけの問題かもしれませんが、自由葬という言い方をすると 自由葬イコール宗教家を呼ばない、にはならないような感じを私は受けるのです。 ただ、宗教家を呼ぶも呼ばないも、ご遺族の自由であることは、現在では違和感がない のではないでしょうか? どのような葬儀をするのかは、当然自由。 ただし宗教家をお招きすれば、それなりの作法やしきたりはあって当然です。 逆に無宗教でご葬儀を行って、なにをどうしたらいいの?となられるという 問題も抱えています。 お経は自分達で唱える、音楽をながして故人を偲ぶ、献花をする、手紙をみんなで読む、 ビデオを流す。 いろんなスタイルがあって良いと思います。 歴史的にみれば、様々な宗教が盛衰を重ねてきているわけですから、一概に 現在の所謂、宗教離れや寺離れを、危機的な憂いのように捉える必要もないのでは ないでしょうか。 結局、そこには宗教イコール葬儀の時、という感覚が特に若年世代の意識を支配している 気がします。 葬儀の何を重んじるのか? から考えたときに、たくさんの方に訃報を知らせ見送っていただく ことを考えるのか、宗教家にきっちり送ってもらいたいのか、少人数で手厚く送ることを 望むのか。 どんなときでも、自由というのは逆に制約を受け、自ら思慮を重ねなければなりません。 最終的には、人生観や死生観が反映されるのだろうなーと思うのです。 それが、個人(故人)のものなのか、葬儀を出される遺族のものなのか、の違いだけで です。 だから葬儀の場は、そのご家族の全体像を表す究極の場だと感じるのです。 葬儀は本当に色々なことを教えてくださる究極の場だと思うのです。