8月も終わり
明日から9月です。あと、4カ月で今年も終わります。
本当に1年は、あっという間です。とはいえ、まだまだと考えないと、
淋しい気もします。
今日から、サッポ○ビールの黒が店頭に並んでいるのをみて、秋を感じる私。
しかし、人の考えることや、その思考メカニズムたるや不思議なものです。
確かに、育った環境、土地、周りの人々の影響、そこから来る個性とでもいうのでしょうか、
人それぞれ違って当たり前ですが、ある一定の環境下でコミュニティが形成されるなかで、
私たち特に日本人は、義務教育というなのもと、平均的な教育を大抵の人は受けているわけです。
時代がちがえば、同じ意味でも教えられるプロセスは違うのかもしれませんが、能力とか学力が、というのは
一旦置いておきましても、同じ事象をとらえ、次にどう対処するかという、言わば実践的な適応能力というのは、
義務教育をへてしてさえ、こうも違ってくるのか、と驚くこともあります。
いや、やはりこれは能力とかの問題ではなく、自己と社会や一定のコミュニティにおいてでさえ、共通意識や
共有意識を持つことに対して、抵抗感と言いますか、隔たりを、なんとも思わない傾向にあるのではないかと危惧することがあります。
これは、時代のせいなのか、そういう世界全体の環境がもたらすものなのかはわかりませんが、例えばひとつの物事に関しての、共通認識の大きなズレは、何を行ってもまとまらない、という事態を生みかねないのではないかと。
仮に、ここに一本の花がある、その花に対して、キレイだとか可愛らしいだとか、好きだとか嫌いだとか、色が良いとか、葉の形に興味を感じるだとか、たくさんの見方があってよいと思う。が、その花は、その他の花同様、水をあげなければ枯れるし、長持ちさせようと思えば栄養を与えねばなりません。そのかわり、手入れをすれば長持ちすることもあり、一日でも長く見ていることができるわけです。
こんな当たり前の道理ですが、今、物事の見方が、その花はキレイだ、そんなことはわかっている、でも枯れることに関しては、花なのだから仕方がない、といういたってシンプルではあるのですが、人間味といいますか、表現がむずかしいのですが、人間の感覚が植物的に思えるときがあります。
気づいているのかどうかもわからない、気づいていても自分はでしゃばらない方がよいという謙虚さを隠れ蓑にした無関心さ、他人に気遣いをしているようでも損得だけは考えるような打算的な考え。
自己犠牲という言葉がございます。献身的に何かを行っていても、人間ですから、報われないな、と感じるときもあります。
自分はなんのために一生懸命考えて、なんのために頑張っているのだろうと。
そんな人間らしさについて考える8月最後の夜です。