ご遺族が、故人さまを最後に拝顔できるのは、式後の「お別れ」のときです。
なぜなら、式場を出棺したのちに到着する火葬炉の前では、時間の関係上、お柩の蓋を開けることが難しいからです。
亡くなられた方への愛着や名残は、やはり容易に解消されるものではありません。だか
らこの「お別れ」の時間は、さまざまな思いの交錯する、濃厚な時間になることが多いの
です。
故人さまに話しかける方、直接その身体に触れられる方、またお柩のそばで静かに涙を
流す方など、その振る舞いは様々です。しかし皆がみなその時間の、容易に尽きせぬこと
を願っていることに変わりはないはずです。
しかし、愛別離苦などという言葉を出すまでもなく、別れの時は訪れます。そして、そ
の時を決し、促すのは式を担当する葬儀社の人間なのです。
式へと参加するようになった当初、私は担わされたその蓋を閉めるという務めを、あま
り適切に行うことができませんでした。どうしても、動きが緩慢になってしまうのです。
先輩からは、もっと機敏な動作を要求されました。しかし自分としては、その機敏な動き
が悲しみに暮れるご遺族を急かしてしまうように思われ、どうしても躊躇してしまうので
した。
お柩の蓋を閉めるということは、ご遺族と故人さまの、今生での生身のつながりを完全
に断絶してしまうということです。一見すると容易に見えるその行為の責任は重く、誰で
もが、たやすく担えるものではありません。それは、本来であれば、聖職者たる宗教家が
担うべき行為であるのかもしれません。当然、悲しみの最中にあるご遺族の方々ができる
わけもなく、今日の葬儀では、多くの場合、葬儀社の人間がそれを担っています。
「お柩の蓋を閉めるというのは、葬儀社としての業みたいなものだ」
蓋を持ち緩慢に動く理由を話した時、ある先輩からそのように諭されました。責任は重く、
決して愉快でもないが、必ず、誰かがやらなければならない蓋を閉めるというその行為。
それは葬儀社に勤める人間の使命でありまた業である、そのような内容の話でした。
悲嘆に暮れるご遺族の思いに共鳴しつつも、さまざまな制約をわきまえ、果断に行動を
積み重ねていかねばならない。
お柩の蓋を持ち、動くという、ごく些細なことではありますが、葬儀社の人間として
のあるべき姿勢について思う出来事でありました。