いつの時代もそうなのだろうか、ご葬儀の規模や形も大きく変化してきているからなのか、
いや、やはり規模や形ではなくご遺族やご家庭の事情なのだろうか。
近年、以前のような華美な装飾を施して、たくさんの会葬者に見守られながらのご葬儀というのは本当に少なくなっています。
確かにご葬儀は大変です。そこには様々なパターンがありますが、いわゆるご葬儀になる直前から、ご家族は大変な思いをしていらっしゃるケースもたくさんございます。
長年の看病、お世話ということで精神的にも肉体的にも疲弊されてらっしゃる状態で、たくさんの人と対応しなければならないご葬儀は、やはり大変です。
ここ最近、ご葬儀のお打合わせをしていて気になりますのが、誰を「呼ぶ、呼ばない」ということではなく、「来れる、来れない、来させない」というところをお話しされていることが耳に残るのです。
例えば、受験シーズンや学校のテスト。どうしても試験日と重なってしまって・・・となれば、受験を優先せざるを得ない状況もあります。しかし、学校のテストくらい融通きかないものかと正直思ってしまうこともあります。
また、仕事の関係で・・・ということもよくあります。仕事が大変な時だから、そう簡単には休めないんだ、というものや、海外にいるからすぐには帰れない、だから葬儀には出席できない、など仕事がらみのご辞退。
「平日は仕事があるんだから、どうしても明日、あさっての土日のうちにお葬式をして!」とか「日曜日に用事のある人もいらっしゃるんだから、せっかくの休みに呼んだら悪いでしょ」なんてことも言われます。
では、いつなら葬儀に出られるのであろうかと思うこともあります。
または、「親戚といっても今までに何度かしか会ったことがない間柄だから・・・」ということで、敢えて「来なくてもいいよ」という話も耳にします。
そして最後に「家族葬だから」「故人がそうしてくれと言っていたから」と付け加えられる。
なんだか「家族葬」という言葉の意味合いが「身内や近しい人、親しい者だけでゆっくりと故人様を偲ぶ」というものから、暴論かもしれませんが「面倒に思えること、負担になることは取り除いてしまえ」という意味に思えてしまうことがあります。
無論、ご葬儀には費用が発生します。費用のことは、各ご家庭の事情がありますから、我々が口を挟んで、ということはできませんし、たくさんの方を呼んで、たくさんのお金をかけることで、良い葬儀ができるということでもありません。
確かに無駄なものにお金をかけてしまうというケースもあったのだと思います。
繰り返しますが「お葬式は大変」です。
過去にご葬儀を経験された方、喪主をされた方、小さいころに傍らで大変そうな親の姿を見ていた方、いろいろな方がいらっしゃいますが、事細かい情景は思い浮かばないが、とにかく「大変だった」「大変そうだった」という印象だけは強く残っています。
「○○のお父さんの時は、もう何百人も来て、みんな手伝ってくれて、そりゃもう大変だったよ」
「おじいちゃんの時は、商売をしていたものだから、ザーッと花がならんでねー、すごかったよ。香典もいただいていたから、そのあとが大変だったけどね」
大変だったが、しっかりと故人様が関わりのあった方、仕事の関係、お世話になった方、いろんな方に儀式に参加していただいた・・・ということはしっかりと残るわけです。
家族葬が主流になってきた近頃でも、「家族葬で見送ったけど、家族の時間が十分にとれて
、本当に良かった」
「親しい方々には来ていただけて、本当に故人も喜んでいると思います」と、故人を中心に考え、規模は小さくても家族で最後に過ごせた時間がとてつもなく大きかった、とおっしゃられる言葉を聞くと恙なく儀式が行われたんだと思うわけです。
しかし最近では、葬儀を儀式として考えずに、なんだか葬儀社のプランやサービスが儀式のように捉えられていないか、不安になることがあります。
人間は生まれてからいくつもの通過儀礼を行います。
産湯にはじまり、お宮参りや七五三、成人式や結婚式、初詣や厄払い、還暦からは長寿の祝いなどが行われ、そして葬送の儀へ至るわけです。
「この子、お宮参りの時は泣き止まなくって大変だったわ」
「成人式の日は、久しぶりにみんなに会って騒いだなー」
「毎年初詣は、あそこの神社にいっておみくじするのが恒例だったな」
葬送の儀礼と一口に言っても、宗教によっても異なりますが、湯灌の儀や納棺の儀、そして野辺送りなど儀礼がたくさんあります。
そして宗教家がいなくとも、葬儀の節目にて音楽を流す、献花をする、献灯をするというのも立派な儀式です。
その他の通過儀礼と同じで、記憶に残るものです。
しかし一つひとつを、あれも無駄、これも無駄、いや必要ない、これもいらない、といくと葬儀で何をするのか?
しかし葬儀社が提案することは追加の料金がかかることだから・・・。
「おばあさんのお葬式って誰が来てたっけ?お坊さんいた?どこでしたっけ?」
「〇〇のおじさんて、お葬式したの?」
生きている間の儀礼はするが、死にゆくものへの儀礼はそこそこに、という葬儀軽視につながっていきはしないか、葬儀自体が無駄なことへと時代を重ねていく中で突っ走っていかないかと。
先に述べました、受験や体調のことなどで出席できない致し方がないケースもあるでしょう。出席できなくて残念だと、当事者があとあと大変悔やまれていたという話も、ご遺族から後日談でお聞きすることもあります。
仕事も様々ですし、会社の慶弔休暇も様々でしょうから、一概にはいえませんが、身内の不幸よりも仕事が優先されてしまうというのは、いささか社会問題ではないかと思うくらいです。
こういう社会の風潮の積み重ねが、いつしか誰もそんなこと思っていなかったのに、葬儀軽視につながっていくのではないかと思うのです。
そしてそういう風潮の中で、我々葬儀に携わる者として一番心配なのは、ご遺族が故人の死に対しての受け入れや切り替えがしっかりとできるのか?という点です。
そして先々ご自身が送られる側に、本当にそういう時期が近づいたときに、過去を振り返り、自分はどう送られるのか?を想像したときにどんな気持ちになるのか。
「死んでしまったら、あとは送る人間の勝手」と割り切れるのでしょうか。
私だって正直、わかりません。
しかし、この仕事をしていく中で一つ言えるのは故人様をしっかりと(お金をかける、かけないということではなく)送ることは、送った側の先の死生観もしっかりしたものになるであろうということだけは強く思うのです。