ご葬儀を担当させていただいたあるご当家にお伺いしてお話をしていると、
「最近の読経は、手を抜かれている気がすんねん」と、
長いお付き合いのお寺様に対しての愚痴がでてきました。
お寺様もご高齢になってくると、足も痛いし、腰も痛いし、お経の時間も短くなるのでしょうか。
確かに、お声も小さくなるし迫力は少し減るのかもしれませんが、お年を召された方になればなるほど、何ともいえない味わい深さがでてくるような気がします。
しかし、こちらのお寺様の噂はよく耳に入ってくる・・・・。
「もし、手を抜かれていたら、先祖様が浮かばれない気がしてな」と、
涙ながらに語るご主人に、うんうんとただ黙ってうなずくしかありませんでした。
他にも、「あの親戚は、いつも口だけ出してきて!本当に嫌!」とか、「隣りの家はこんな時なのに、協力してくれない」とか、お葬式にまつわる色々な愚痴をこぼされます。
私は、ひたすら「うん。うん」と話を聞きます。
話し終えると、ただうなずいてただけなのに、皆さんすっきりされた顔をして、「聞いてくれて、ありがとうな」とにっこり。
お葬式という人間関係の渦の中で疲れたとき、蚊帳の外にいる私たちスタッフは良いクッションになるのかもしれません。「なあなあ、あの人にうまいこと言ってきてや~」と、間に挟まれたり。「ちょっと、聞いてや」と離してくれなかったり。
なかでも、一番びっくりしたお話があります。「家族にも話してないけれど、わたしと息子は血が繋がっていないんですよ。でもこの話は墓場まで持っていくつもり。だって、誰に話してもいまさら徳にはなんからね」そんな重大な告白を赤の他人にしてしまうのも、死と向き合うお葬式という非日常空間だからかもしれません。