葬儀品質とは
個人的にバックオフィスの仕事が多くなっているため、実際の現場に直接携わる機会に触れると、思いがけず過去の想い出が蘇ります。
コロナ禍という約3年間を経て、この葬儀業界も他の業界に漏れず、様々なサービス面で変化をしてきました。
なかなかお葬式に関わる機会が少ない一般の方には分かりずらいかもしれませんが、「あぁ、こういう時代の大きなうねりの中で冠婚葬祭の形も変化するのだなあ」と身をもって感じた気がします。
葬儀は、言い方を恐れずに言えば、「人がたくさん集まるイベント」となるわけです。そして葬儀は国で何かしら法律が定められているわけではなく、それは火葬や埋葬に限ってのことですので、儀式自体に確固たる形式があるわけでもありません。
つまり、「習俗」です。
ただ習俗とはいえ、宗教つまりほぼ仏式作法が基本になるわけですから、これがあって、これを先ずは基準に一般のいわゆる在家の方の葬儀のスタイルが宗教家とともに変遷してきたわけです。
葬儀は一大事であることは間違いなく、それゆえ大変なイベントとして捉えられてきたわけで、だからこそ近隣住民が力を合わせて手伝いをするという相互扶助の観念が強いイベントであったわけです。
そんな中で、在家都合なのか、宗教家都合なのかは、正直どっちもどっとなのでしょうが、葬儀の形式はある程度定まりながら、かといって「人の死」というところからすると、個人的な考えですが「機密性」が高かったのかな?という気もしております。
であるからこそ、地域性がかなり大きく、未だにこの地域性で親族、親戚が揉めることすらあるのであろうと推察されるわけです。
そんなお葬式ですが、様々な経済動向に揺さぶられながら、簡素化や派手さやいろんな変遷を辿り、現在に至っており、いつのまにか宗教家、導師の手を離れ、施主側の意向を重んじる傾向が強くなっているわけです。
それはそれで多々良い面もあり、自由経済という中で「どのような葬儀を行うか」を個人が選択できるということは、大きな発展なのだと思う反面、費用面で苦労している遺族に対して、近隣住民が助け合うという相互扶助の点からすると薄らいでいるのは間違いないわけです。
よく欧米の葬儀と日本の葬儀について、「日本の葬儀費用は高すぎる」という論説を目にします。
あちらは日本の約半分の費用で、とか3分の1でできる、とか。
そもそもこの単純な費用面で考えること自体が、あまり意味をなさないのではないか、と。
宗教も違えば、スタイルも、習俗も、考え方自体が違うわけで、そこに発生するコスト感は、その国々の需給バランスによってきめられていることで単純に比較することではないと思っています。
ですが、一番はその金額に対するサービス面、そして品質面に合致しているか、という一点に尽きるのではないでしょうか。
私が知る限り、現在の日本の葬儀業界は、完全なる「サービス業」で、過去はどちらかというと「レンタル業」や「設備請負」的な面が強かった気がします。
サービス面が重要視され、それが他社との差別化につながるわけですが、それは業界全体の地位向上やレベルアップにつながるという面では今後も、利用されるお客様にとって本当に良いことだと感じます。
ここからが問題で、現場に久々に出て思ったのは、お寺様のお葬式でも「在家のお葬式みたいに」といった風潮が出始めていることに、大きな時代の変化を感じざるを得ませんでした。
こうなってきますと、厳粛たる葬儀に対して、カジュアル感を求めているのか、それとも葬儀に対する意義的なところは宗教家であってもやはり一般の人となんら変わりないという「人間の根本的部分」で成り立つのか、と。
亡くなった方を葬る、それは火葬を行うということで十分に成り立ちます。
そこを基本と考えた時に、葬儀品質とはいったい何なんだろう、と。
サービス業と位置付けられている以上、葬儀品質についての見解は、これからの時代さらに激しく論じあわれるのであろうと、寺葬や企業のお別れの会に携わりながら感じている日々です。