最後の
最後のイゾラドという番組が、NHKスペシャルでやっておりました。アマゾン奥地に住んでいた文明社会と未接触民族
のある部族の最後の一人と思われる人の30年間の記録。
以前、ヤノマミ族の特集などを見ていた私は、今回も興味深く見させていただいた次第です。
とにかく言語がお互いに理解できない、理解できる言語が800語程度ということで、コミュニケーションがとれない
状態です。文明社会の異国人同士であれば、共通認識や共通概念がたくさんあるので、言葉が通じなくても身振り手振りで
理解が深まるのですが、そもそも認識も概念もまったく違うとなると、同じ言語でさえももしかしたら違う意味で使われているかもしれないという
可能性もあるわけです。
そんな部族の最後のひとりが、年齢的にもかなり高齢になり、もしかするとここ数年で途絶えるであろうという状況だそうです。
確かに歴史的に見て興味深いのではありますが、なにしろ1万年前の生活と同じことをこの現代でやっていたということですから、
驚くというよりも、世界は狭くなったとはいえ、未知なる世界はまだまだあるということに若干ショックを受けてしまいます。
数年前までは、もう一人兄弟のような存在がいましたが、先だってしまい、本当に会話のできる相手を失ってしまったのです。
番組中、「死」ということに関して、いろいろとでてきたのですが、彼らにとっての「死」の概念もまた、私たちとは全く違っていると
推察されました。
この番組見ておりますと、昨年ベストセラーになりました、サピエンス全史のことを思い出さずにいられないわけで。
人類は多くの部族に分かれていたものが、ゆっくりと少しずつ、統一への道のり進んでいく…。それが、思想や宗教、そして貨幣の力によって…。
この最後のイゾラドの件も、考えてみれば、現代の文明社会にいる私たちから見れば、一つの部族が絶滅するということですが、過去の歴史から見れば
こういうことが繰り返しどこかの時点で起こり、そして今の文明社会があるわけです。
こういうことを考えたとき、個々の死生観、各民族の死に対する考え方というのも、実は文明に左右されている点も少なからず影響を受けていると
思うのです。
それは宗教という点から、そして地域性、気候や風土といったものもそうでしょうし、その国が刻んできた歴史の出来事もそうでしょう。
それが、葬儀のあり方や風習に表れているのだと思うのです。
逆に言い換えれば、私は、葬儀や弔い方ほど自由であって良い儀式ではないか、と思うのです。
番組中、おそらく部族の仲間たちが、どのようなことでかは、はっきりしませんでしたが、亡くなっていく様を話しているだろうという
ところがありました。
そのときの彼の表情は、厳しくも悲しげな表情に見えました。
文明社会にいなかった彼が、死に対してみせる感情が、悲しい、つらいという思いであるとするならば、これこそ文明、非文明どちらも関係なく
共通概念であるかもしれない、そう感じ、太古の昔から死者に花を手向けていたという記述も、納得いくのです。