災
今年の漢字は「災」でした。
大阪も地震に大型台風に、と災害が重なった年でした。
なぜ災いはもたらされるのか?自然災害であれば、自然の驚異であるとか、自然には敵わないだとか、よく言います。
災い=わざわい の「わざ」というのは辞書によると「隠された神の意図」であり、何かしら人間界に罰を与える目的との見解が載せられております。
神という、なかなか偶像化できないが、ほとんどの人間が何かしら影響を受けてしまう存在で、ほぼ共通の概念が人々の頭に刷り込まれている、その存在が、いわゆる怒りの様子を表したのが「災難」ということでしょうか。
災難=天罰と、本気でとらえて、信じてやまない時代があった、いや今もなお、そう信じていらっしゃる方も多くいるかとは思いますが、怒りを鎮めるために様々な行いや行事がなされたわけです。
一般庶民は別として、たとえば人の死を、穢れととらえることもございます。つまり、これも神のお怒りに対して、畏怖の念を抱く、おそろしい出来事と。
ですから、葬送の儀式が、何日間にも渡って行われ、遺る者らに災いが降りかからないようにと、きっちりと儀式が行われた、としてもなんら不思議なことではありません。
歴史学者ではないので、この考えが正しいかどうかはわかりませんが、何日にも渡って儀式を執り行うことで、遺された者は、その日柄で恐れや忌みが薄らいでいき、普段の生活へと徐々に戻っていく、何も起こらない、平時に戻った、と安堵のときを迎えたのでしょうか。
宗教心や信仰心がなくなっているように捉えられがちな現代、そのことで葬儀が簡素化され、死に対して無頓着なように言われております。ちゃんとお経をあげてもらわないと祟られる、なんてよく聞く話でしたが、いまでは非科学的だと、逆に葬儀に宗教家を招くことを非難するほどの方もいらっしゃいます。
宗教心があるとかないとか、非科学的だとか、そういうことよりも、現代の葬儀の捉え方は、進歩していると考えてみてはどうなのかな?と思うところもあります。年末ではありますが、そういうことについて皆が集まられるときこそ、そんな話もありかなと思うのです。
さて来年は「災い転じて福来たる」という1年になりますように。