心理的安全性を履き違えている?
のではないか、と思うこと、気になっていることを一つ。
ビジネス界隈で、心理的安全性の重要性が叫ばれて何年か経ちますが、この心理的安全性をどのように理解しているのか、またどのような使われ方をしているのかについて考えることがあります。
要は、叱られるかもしれない、否定されるかもしれない、間違っていたら笑われるかもしれない、など組織や上司部下の関係性など人間関係の中で、自由に発言ができないとか、活発な意見が飛び交わないから、みんなが思ったことをきちんといつでも安心して発言や意見ができる環境を整えようみたいな、なんでも話せる会社組織だとか、きちんと聞いてくれる素敵な上司だとか、そんな感じくらいで捉えている人も多いのではないでしょうか。
そもそもご存知の方も多いでしょうが、とある巨大組織のかなり優秀な人材が集まる組織においての実験としても有名ですが、なんでも意見が言えるグループのほうが生産性も結果も良かった、みたいなあれです。
なんでも言える、発言できる、発言したことは否定せず先ず受け入れてみる、これが組織が底上げする第1歩的にいわれたり、こういうことが出来ない組織はハラスメント組織だと言わんばかりの言い方をしたりするものもいます。
なんでも意見を出せる環境や、否定から入らずきちんと意見を出したことに対してリスペクトする、などは当然「良いこと」です。しかしそんな組織の弱点は、「否定しない」「指導しない」「注意しない」になっていってはいないか?ということが気になります。
経営者や上司がロジックとして間違いを指摘出来得るだけの根拠を提示できるような間違いを犯していたり、ルール違反(本当に違反している)していたら、「それはいけないことだと思います」と言える環境や、部下を注意、指導しても最終責任を負うことができる関係性は、心理的安全性が確立されているのであるから、注意や指導、ときには叱責があってもお互いに負の部分を認め、それが組織体制を強靭なものに変えていくものだと思うのですが、いかがでしょうか。
心理的安全性を履き違えると、ただのわがまま言いたい放題の、小学校低学年のクラスのような状態になりますし、それに似た組織は多々あるかと。注意されると、「あんただって、やってるやん」「〇〇くんもしていたのに何で僕だけ怒られるの?」のような、他人の否定で自らの行動を肯定しようとする状態です。
そして究極は、自分の意見が「受け入れられない」と納得しない、間違っている、何を言ってもやらせてくれない、合意してくれないからやる気が出ない、というとんでもない思考に入っていきます。
意見を聞くことと、聞き入れることとは別問題です。なぜならお金のかかったビジネスの場であり、利害関係者が多々いる世界の中にあるから、というところまで理解している組織(すべての社員)であれば、本来は心理的安全性が某大企業のグループの実験のような効果をもたらすのであろうと。
これ、葬儀社の現場スタッフ、チームレベルでももっとも大事な要素です。(別に葬儀社に関わらずですが)。チームで臨むものすべて、組織の成り立ちはあってもお互いを良い方向へ導く、それは顧客のためであったり、勝利のためですから当たり前のことです。
ただ、ルールを徹底的に守っている組織は、心理的安全性などは必要ないくらいだと、個人的には思っている次第です。
良い悪いは別にして、日本も実力主義的な要素が社内で強まったからかな?個人レベルで成績を考えるようになったからかな?という気もしないではないですが。
HO
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