ロボット審判
が、メジャーリーグのキャンプで導入。人間の審判の判定と、その判定が疑わしいときに、他のスポーツでも導入されている「チャンレンジ」的にビデオ判定よろしくロボット審判のジャッジが下されるそうです。
ビデオ判定というのは、確かにスポーツのようなきちんとした「ルール」が定まっている世界では、とても画期的であり、その判定結果でいままで泣いてきた事例も多々あるであろうことから、充分に機能するのであろうとは素人ながら理解できるわけです。
しかし「人間のすることだから」「人間が判定するのであるから」疑わしさはありながらも、人間同士の対決に合って人間が判定するということの本意もわかる気がするところではあります。
つまり、何かしらの行動での失敗を、「君の行動は間違っているんだ!」と仮に叱責したとして、それが人によっては「いや確かに間違いはあったかもしれないが、充分に挽回できるから自信をもって頑張ってくれたまえ」という判断になる場合もあります。
これは、社会における「教育」や「指導」という部分においては、善悪のいずれかで結論付けられない(もしくは結論付けない方がよい)場合の「人間らしさ」というところに通じるところであると思います。
そう、ルールがありながらも、プロセスが一定ではないことが多い世の中ですから、そういうことは多々あるわけで、それで善悪を決定してしまうと「人間関係」や「情」というものも皆無になり、まさにロボット同士が仕事をしているような状態になる場合もあるということです。
この考えは、見方によっては「超公平」で「超効率的」で、そして「超プロフェッショナル」ともいえるかもしれません。
要は感情がない分、「叱責」や「嫌味」「誹謗中傷」など、皆が嫌がることは無くなるわけです。
では、昔から「愛情」があるゆえに「叱る」ということは、やってはいけないことになるのかどうか?いわゆるハラスメントに当たるのかどうかとなると、昭和な私はいささか疑問が残るわけです。
自身の子供たちがどう思っているかはわかりませんが、やはり時として「厳重に注意」を行うこともあります。それは、わかりきっていることですが、「憎い」わけでも「腹がっ立ったから」という一時的な感情を出してのことでもありません。これは、親子であるからこその関係性が為せる技なのかもしれません。ですが、親子でなくても「大切に思う」人に対しては、口を挟んだり、厳しく指導することに対しても、必要であると思っています。
ただ、現代、その「言葉」によって傷ついたり、自信を無くしたり、そして「そもそも聞かない」ということもあります。
このように考えた時に「じゃあ、ロボットにすべての記録を見てもらって判定してもらおうか?」という気持ちが湧くこともあります。
信じるところがAI判定という方向に勝手に進んでいるのではないかと危惧することもしばしば。
仕事中すべての言動を記録され、何か問題が発生したときに、社員、顧客双方のすべてのやりとりデータをAIが判定→いすれかが正しく、いずれかは間違っている、というような世界です。
人がAIによって指導、教育され、AIの判定が善悪を決める物差しになり、「だって、AIがいってたもん!」という言い訳をし、AIも「〇〇のAIは、△△よりよね」みたいに自分の解釈に都合のよいAIを選択するような〇〇みたいな時代が本当にやってくるのではないか、と。
スポーツの審判がロボット(AI)で、裁判官も各種AI、弁護士もAI、検事もAI、ジャッジはすべてAIです。
まあ、いかさまや忖度、政治的要因などが排除されることは、望ましいことですが・・・あ、そうか、そう考えるとAI至上主義ということもそうそうは簡単にすすまないか、とも。
まあ、私が生きているうちは、いろいろと革新はすれど、人間の「道徳心」が皆無になることはないかなとも思いますし、若者でも我々おじさん世代よりも、とても道徳心のある人たちがたくさんいます。
だからこそ、若者に何かを伝えようとする年配者もいるものだと、軽く考えてもらえると、世の中少しは楽しくなるのではないかな?と、ロボット審判の記事を見て思う次第でありました。
H・O