死は穢れか?
言うまでもなく、私は穢れとは思いません。
また、ケガレを穢れや汚れという漢字を用いますが、一説によるとケガレは気枯れから来ているとも。
気が枯れる、家族や身近な仲間、知人、または何かしら縁のあった方が亡くなられたら、気持ちが沈みます。だから「気枯れ」、そのさみしさが蔓延すると、全体的な雰囲気も枯れるような感じになります。そういった雰囲気という「気」は決して明るいものではないですが、忌み嫌われる、とまでいうと「?」ですね。
いろんな解釈の仕方がありますので、一概に学者ぶっていうことではありませんが、一般的な亡くなられ方での、亡くなられてからのお体の保全状況、土葬ではなく火葬の一般化、科学の進歩、様々な理由から考えて、「死」というものはもちろん、身近に起こってほしくないことは、どんな時代でも同じことですが、「死者」をある種、蔑視するようなことは、一昔前に比べて随分と変わっているのではないでしょうか。
いろんな時代背景があり、戦時中など「死と隣り合わせ」のような時代、想像するに、死者を手厚く手厚く葬ろうにも、それ自体ができない時代もあったでしょう。
また、逆に一人ひとりに悲しみをもって接していたら、どれだけ感情が揺さぶられ、精神的に持たない状況もあったのではないか、そうすると、無意識にこれだけ近くにある死を、敢えて遠ざけようとしたのではないか?といろいろ想像するのです。
そんなことが、いつの間にか「死は…」みたいな、身近なものに不幸をもたらすような「穢れ」として捉えられてきたのでは、と。
しかしこの現在、コロナ禍で、100年来の生活様式の変化の時代、そして人工衛星が6年間飛行し続け、遠く離れた星の砂を持って帰ってくる時代、様々な差別の見方が変化してきているこの時代、インターネットが普及し、AIが発達しているこの時代、「死」や「死者」に対する考え方が昔のままであるはずがない、と個人的に思うのです。
霊的なことなどは私にはわかりません。あるのかないのかもわかりません。
気持ち的なことは前述のとおり、いろんな思いはあって当然です。
葬儀社の従業員が死に慣れているという方々もいらっしゃいます。が、死に慣れたなどという社員は私は全国どこの葬儀社であってもあり得ないと思っています。
それは戦況下にある兵士であってもそうだと思っています。
慣れるどころか、敏感になっているほうが正しいのでは、と。
すべては個人的見解です。