だから人間
人間が年を取り、いままでできていたことができなくなっていく。これは世の常ではありますが、
確かに、身近なものとしてはさみしい思いに駆られることもあります。
子供ができそうでできないときに、親がなんでもしてしまう、これも子供の自立心を妨げてしまう可能性があります。
なんでも、親に頼めばやってくれる。これを親の優しさと思っているうちはよいのですが、しまいに、甘えが当然のことのようになってしまうと、自立できない子供が育ってしまうということも危惧されるわけです。
出来ていたのにできなくなるのと、これからできるであろうことを他者がやってしまい、できるという経験を失ってしまうことは、全く性質が違うものです。
さまざまな環境下で人は暮らしていくのですが、このことは社会人でも同じことが言えます。
きっとできるであろうことを、いろんな理由を付けてやらせなかったり、その逆でいうところの無茶ぶりをしたり、
または、良かれと思って手を貸したことが、成長を止めてしまったり・・・。
人が社会で暮らしていくには、いろんな人の考えや意向、性格など、いろんなことを考えて、生活していかなければなりません。
なかなかこちらの考えを察してくれない場合もあれば、意を汲んでくれたり、社会や組織においてはそういう人間関係が複雑に絡み合います。
私は、お葬式というのは、こういった複雑な人間関係を、調和させ(妥協ではなく)、このときばかりは、と皆が一つになれる場だと思っています。
まさに、人の命を前にして、皆が考える教育の場となるのでしょう。
つまり、この仕事に携わらせていただくことに対して、故人様とのご縁を考えますと、感謝の念が湧き、精一杯務めさせていただきます、という言葉が、ふっと出てくるのであります。